お母さんは本を読む時間がない

”ははがよむ” あおきともこのブログ

6. 知ってもらうための第一歩は、公園で風に吹かれて

 みんなにニーズを知ってほしい

  私が ははがよむ でまずやりたかったのは、「小さい子どもを育てるお母さんは(自分の)本を読みたくても読む時間がないんだ」と、気づいてもらうこと。

 託児を始めている図書館への聞き込み体験から、やる・やらないは、気づくかどうかだという実感があった。気づきさえすれば、多くの人に本を読んでもらいたい人たちが動いてくれるに違いない、という他力本願な考えもあった。

 

 そう考えた理由には、出産直前で途絶えた私の経歴があったかもしれない。大学で文学を学び、新卒で入った出版取次会社では売れ行き調査や書店応援をしながら「いかに本を買ってもらえるか」「いかに本をほしい人に届けるか」を考える部署にいた。その後に潜り込んだ出版社でも「いかに手に取ってもらえるか」「何を渡せるか」「何を作ったらいいのか」を考えていた。

 ……こう言うと立派だが、これはしゃべり慣れた面接用の言い回し。実際は、考えながらもわからず、上手く動けず、パッとしなかった(この辺りを詳しく書くにはまだ時間が必要だ)わけなのだが、ともかく、本のことばかり考えてきたのは嘘じゃない。

 

 つまり私は、そんな当時の自分や現在の業界の人たちに「本を読みたいのに環境的に読めない人がいる」と知らせたかったし、「そこを何とかすべきでは」と働きかけたい思いがあった。必ずしもみんなが本を読まなければいけないわけじゃないけれど、読みたいのに読めない人がいるなら、そこは売上云々以前に、考える意義があるんじゃないか、と思ったのだ。

 出産を機に仕事から離れたものの、まだその仕事に関わっていたいという未練もあったのだと思う。とはいえ、遠ざかったからこそ気づいた「必要」でもあった。

 

 幼稚園で知った「輪読」 

  私は ははがよむ の最初のイベントとして「小さい子どもを育てている最中だって、自分のための時間を持つことは大切」という視点で、一緒に考えたり、話し合ったりする場を持とうと思った。

 いきなり業界の人や多くの人に知ってもらうのは難しいが、まずは身近なところから、みなさんがどう思っているのか、どんな状況にあるのかを知って、感触をつかみたかった。

 

 話しのよすがとして頭に浮かんだのは、たまたま一箱古本市で出会った『あなただけのちいさないえ』という一冊の絵本。大人でも子どもでも、自分だけの「ちいさないえ」に籠る時間は大切だよ、と丁寧に伝えるこの本を初めて読んだとき、私は驚きと充足感でいっぱいになった。「これだ!この本を、みんなで読みたい」

 

 子どもが卒園した幼稚園はキリスト教会の付属園で、月に一回、園長先生(=牧師先生)との「聖書の会」があった。私はクリスチャンではないため、どんなものか戸惑いながらも好奇心で参加したのだが、聖書の一節をみんなで読み繋いでいく「輪読」を中心に話しをする穏やかな進行は興味深く、楽しかった。

 「輪読」には、人の声を聞きながらみんなで文章を味わう良さがあった。この良さを生かして『あなただけのちいさないえ』を輪読してみたら面白いかも、と思いついた。

 

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罪悪感なく楽しみたい

 場を持つきっかけを作ってくれたのは、第5回で登場した「まちのおやこテーブル」さんだった。公園イベントで子どもも大人も読み手になれる「まちのおやこのお話し会」をすでに何度か開催していたことから、そこにジョイントしては、と声をかけてくれたのだ。

 

 ははがよむ の企画でつねに考えなければならないのは、「そのとき子どもはどうするの?」ということ。親が楽しむ間、子どもに我慢していてもらうのは本意じゃない。横で絵本を見たり、ちょっと遊んだりできるスペースが用意されているだけで大分違う。

 他の家族に付いてもらえない場合は心を離すわけにはいかないが、周りの大人みんなで見守っていれば、安心感は大きい。完全な「託児」ではなく、互いに気にかけあいながらそれぞれの時間を過ごせれば、いろいろなことができることに気づいた。

 もちろん、子どもと参加するのも良い。その時も、子どもに「付き合わせてごめんね」と罪悪感を持たなくていい。その点、公園というのは良い環境だ。外の空気を吸い人や鳥の声を聞くと、くつろいで楽しい気分になれるだろう。

 

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 こうして少しずつ形が見えてきて、ははがよむ 第一回イベント「みんなで『あなただけのちいさないえ』を読もう!」は開催された。5月のさわやかな風を感じながら、大きな木の下でゆったりと絵本を味わう時間は格別だった。絵本から、外の解放感から、本音が引き出され、閉じ込められていた言葉が飛び出して涙する人もいた。

 みんなで集まる時間は1時間にも満たないわずかな間だったが、それ以外の時間も図書館の団体貸し出しを利用した本や持参した本をテーブルにたくさん並べ、椅子を置いた。年齢性別問わず、公園に来た人たちがきままに利用していってくれた。

 

 参加者が殺到したわけでもなく(ほとんどが知っている人だった)、特に話題になることもないささやかな第一歩ではあったが、「もっとこうしたら」「これもできるかも」が出てきたし、仲間と一緒に考えたりしゃべったりするのが何しろ楽しくて、次を考えたくなる、大きな一歩だった。

 

 

5.人と会って話していたら「ははがよむ」ができた

一人の時間、しかも毎日

 

 ご意見ボックスに「託児があったら嬉しい」と書いて入れて以来、図書館へ行くたびに掲示板をチェックしていたが、回答はなかなか貼り出されなかった。

 

 もやもやしながらも、子どもは元気に育っていく。

 こうして「子どもを生んだら本を読む時間がない」と書いている私だが、子どもへの愛おしさが少しも減っていかないことに毎日(今でも)驚き続けている。子どもがかわいいことと、自分の時間が必要なことは、私の中では少しも矛盾しない。

 「自分の時間がほしいな」「ゆっくり本が読みたいな」「何かできないかな」と思いながらも、子どもの成長に驚き、面白く眺め、一緒に遊ぶのを楽しみながら、その時期になれば着々と幼稚園情報を集めた。人より動きは遅れながらも、3歳の春に子どもは無事タンポポ組の ”タンポポさん” になった。

 

 こうしてまさに4年ぶりの一人時間が訪れた。しかも毎日! 

 初めの数日はフワフワと心もとない気持ちを味わったが、子どもは子どもで楽しく過ごしていることが窺えると、たちまち羽が生えたように身軽になった。私は私で一人出かけたり、在宅の仕事を受けたり、新しく人と知り合ったりと、忙しく充実し始めた。

 

 そうはいっても親の出番が多い幼稚園だったので、日々の半分(またはそれ以上)は園に費やされた。しかしこの負荷は自分がそれを承知で選んだこともあり、それほど苦痛を感じずにやり通した。
 幼稚園は文科省の定める範囲の中で各園が個性というか差別化を打ち出していることが多く、保護者はいくつかの選択肢の中から子どもや家庭状況に合った園を選ぶ。つまり、親同士の価値観がそれなりに重なることが多い(もちろん、そうならないこともある。もちろん)。

 子どもが通った園はその傾向が割と顕著で、親同士の交流もさかんだった。私が知り合ったお母さん(お父さん)たちはみなとても気持ちの良い人たちで、それぞれの得意を出し惜しみせず各所で活かし、助け合い、大笑いできる関係だったこともあり、幼稚園時代は楽しく忙しく過ぎていった。

 

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人に話して見えてきた

 

 ある日、園の文集作りのために公民館で切り貼り作業をしながら、私は一緒にいた2人に何気なく、例の「本を読む時間がなかった」話をした。

 ”幼稚園母” 期間中も「何かできないか」は絶えず考え続けていたから、地域活動で活躍している人や企業サポートをしている人と話す機会があったときに口に出したことはあったが、園のお母さんにそうした話をするのはよく考えれば初めてだった。

 園の世界に馴染まない話をしてしまっただろうか、引かれてしまったかも、と引っ込めたい気持ちにかられたが、2人は驚きながらも深く共感してくれた。

 2人にとって必要なのは必ずしも本ではなかったけれど、「わかる」と言ってもらって、私にとっての「本」がある人にとっては手芸だったり、旅行だったり、スポーツだったり……という具合に、みんなそれぞれの「足りなさ」を感じていたことがわかった。

 

 少しずつ視野が広がると、子どもを保育園に預けている人が「平日の夜こそがしんどいので、子どもと気兼ねなく外食できる場所と機会がほしい」という活動(まちのおやこテーブル https://machinooyako.com/)を始めていることも知った。

 保育園のお母さん方とはなかなか出会う機会がなく、ときどき伝え聞く「保育園ママの悩み」と自分のしんどさには隔たりがあるように感じていた。しかし、直接話してみれば、自分の時間が持てず疲弊している点ではほとんど同じだった。

 暗くなってから外に出ることがなかったので、平日夜に子どもも大人もゆっくり外食できるなんて夢のようだったし、子どもも尊重され、「まちの大人みんなで子どもを見ていこうよ」という在り方には大きな刺激を受けた。

 

 チームははがよむ結成

 

 子どもを通して新しく出合った人たちに、子どもの話ではなく、思い切って自分の話をしてみたら、事情は違えど、かなり多くの人が親になってしんどさを抱えていることを知った。そして、解消するためにすでに動いている人がいることが見えてきたし、ボランティア活動センターの助成金など、人のために動く人をサポートする仕組みがあることもわかってきた。

 何かできそうな気がしてきたし、話せば話すほど「やってみてほしい」「まずはやってみればいい」と背中を押してもらえた。

 

 そんなこんなの3年を経て、子どもが小学校に入学すると同時に、私は「本が読めない」話を聞いてくれた友人数人に声をかけ、これからやってみたいことを話し、それぞれのやってみたいことを聞き、仲間に入ってくれないかと相談した。

 こうして、プロジェクトチーム「ははがよむ」が生まれたのだった。

4. ちょっと動いて見たら、理想と現実の深い溝に落ちそうになった話

電話をかけて聞いてみた

 託児サービスがある図書館の存在を知り、「本を読みたいお母さんのために何かやりたい」と、半ば焦るような気持ちでいた私は、すぐさまそのサービスについて知りたくなった。

 私は子どもが昼寝をしている隙に「託児」「図書館」の検索で見つかった託児サービス実施館を片っ端からメモして、順番に電話をかけていった。

 

 たどたどしくも電話をした理由を話したら、利用者でもない遠くの者からの唐突な問い合わせにもかかわらず、どの館も拍子抜けするほど親切に、丁寧に対応してくれた。

 以下は、その時のメモの一部からまとめたもの。 (2016年時点での状況)

 

 Y市立図書館

 アンケートでも以前から要望があり、子育て経験のある職員が「確かにあの頃は自分の本の時間がなかった」と声を上げたことがきっかけで託児サービスを開始することになった。保育者は地域の出張保育グループを探して依頼することになった。始めた当初は利用者が少なかったけれど、今では常連さんが多く利用している、とのこと。

 図書館が自分たちで考え、工夫して試行錯誤しながらがんばっているという温かさを感じた。

 

 K市立図書館

 1年前からスタート。市民ホールや保健センターの利用者と同じ託児室を利用できる。この託児室は年間2,3千人の利用があるといい、基本は予約制。運営はNPOに委託しているけれど、市の持ち出しもあるとか。それでも、託児がないと来られないという市民のために、民間の活力を導入してやっているという。

 施設に初めから託児室が据えられていただけあり、託児の必要性が当然のように頭に入っているという印象。財政的に厳しくても、必要だからやる、という感じ。そもそも専用の部屋があるのだから、工夫して続けていくのではないかと思う。

 

 T県立図書館

 1年前から託児サービスを開始。保育サポーターの研修を受けた職員がいたこと、予算編成時に財政課に育児中の人がいたことから「必要」の声が上がり、子育てに力を入れていくという県の施策にも合っていたので、決めた。利用者からも好評で、来年度の継続も決まっているとのこと。

 電話口で応じてくれた人がとてもイキイキと楽しそうで、シンプルに「あー、私もこういうサービス利用してみたかったなあ。いいなあ」と、うらやましい気持ちになった。

 

 この時点で私がなんとなくわかったのは、

・どこの託児サービスもこの1,2年(2016前後)に始まったらしい

・利用者には好評だが、財政的には楽ではない

・楽ではないけれど、担当者は意義を感じているらしい

といったこと。

 

 今振り返ると行政の予算決定のプロセスや、指定管理か直営かなどの事情の違いによるやりやすさ・難しさなども聞きたかったよね、と思うけれど、この時にはそんなことほとんど理解していなかった。ともあれ、実際にやっている人の声を聞くことでかなり具体的にイメージすることができたし、「できるんだ」という確信をつかんだ(気になった)のだった。

 

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「 ニーズは聞いていない」に驚く

「今電話で聞いたような他館の話をすれば、近くの図書館でもやってもらえるんじゃないか」

 話してくれた方々の好意的な反応によってたちまちポジティブに拍車がかかった私は、出かけついでに駅前の分館に寄って、無邪気に聞いてみた。

 

「すみません、市内の図書館では託児サービスなどはないのでしょうか? 他地域ではそうしたサービスがあると聞いたもので」

 

 受付けの女性は私と手をつないだ子どもに優しく目をやり、「託児サービスは、ないですねえ。確かに赤ちゃんがいるとなかなか見られないですよね」と共感を示し、そうした要望や問い合わせならここに連絡をしてみるとよいかもしれない、と電話番号を教えてくれた。 

  女性の優しい対応に勇気づけられ、今度は意気揚々と教えてもらった番号に電話をして、同じ質問を投げかけた。

 ここで、私の無邪気ポジティブ推進力は一旦下向きに軌道修正された。

 

「今のところ、そうしたニーズは聞いていません。ただ、このような声があったことは上げておきます」

 

 託児サービスを始めている図書館に電話したときには「ニーズがある」ことは共通認識のように話しが進んだので、この反応の違いには驚いた。電話を切った後しばらくの間、下向きの矢印になった私は次にやることがわからなくなって、ぼんやりと部屋に座っていた。

 

 数日後、いつものように子どもと図書館に行った。私が電話をかけてきた人物だなんてわかるはずもないのに、なぜかギクシャクしてしまう。

 居心地が悪くていそいそと出口に向かうと、壁に利用者から寄せられた声のいくつかが張り出されていた。予約についての質問や、図書館で過ごす人のマナーについての苦情など、読んでいるこちらが緊張してくる。それぞれに書かれた館からの返答をぼんやりと読みながら、私は了解した。

 

「そうか、声が聞こえなければ、ニーズは気づかれないんだ」

 

 じゃあ、気づいてもらえばいいんだなと、私は用紙に「小さい子どもと一緒だとなかなか自分の本を借りたり読んだりできないので、託児サービスのようなものがあったら嬉しい」と書き、ご意見ボックスにポン! と威勢よく放り込んだ。

 

 

 

 

 

 

3.ほしいものを考え詰めた、紆余曲折の後の託児案

 子育て中でも自分の本を楽しむ時間を欲しいのは、自分だけじゃない。でも、そのためのものがない。そう感じた私の心には、「何かやるしかない」という思いが沸きあがっていた。

 

私だったら、どんなものがほしいだろう。

 

 思いついたのは、部屋を借りることだった。赤ちゃん向けという雰囲気ではなくて、あくまでもお母さんがゆっくりと良い気分で好きな本を読める場所。デカフェのコーヒーや紅茶なんかがあれば、嬉しいかも。部屋にいる間、赤ちゃんは私が抱っこして遊んでいてあげよう。部屋の名称は「mom's reading room」とか「お母さんのための読書室」とか……。

 

 「同じようなことをしている人が、既にいるかもしれない」と思ってネットで調べると、アパートの一室を借りて貸本カフェを開いたり、乳児の母だけが利用できる漫画喫茶を始めたりしている人がいた。なるほど、やっぱり近い思いを抱えている人はいる。でも、数は少ないし、バリエーションも多くない。早いうちに私なりのものを作りたい、という思いが強まった。

 

 しかし、具体的に部屋を借りることを考えながら不動産情報を調べるうちに、はじめの勢いは失速していった。

 当時私が求めていたのは「やたらと本のおススメをしてこない場所」。子どもがいようが、子どもを持つ前と同じように、あらゆるジャンルから自分が好きに選びたい。子育て広場で本の話というと、子育関連しかなかったことへの反発もあった。

 ということは、ある程度さまざまなジャンルを網羅する量が必要だ。そうなると、小さなアパートの一室を借りて、できるだけ偏りない選書をするというのはかなり難しい。一室だからこそ「同室でちょっとの間なら私が赤ちゃんを見ていてあげられるよ」というメリットがあるのだが、そこで得られる楽しさは限定的になってしまうだろう。

 

 毎月の賃料、光熱費に書籍代。雑誌を入れ替えるなら、定期購読も必要かもしれない。このお金は、どうする? 

 コーヒー代をいただく、会員制にして会費をちょうだいする、なども考えたけれど、どんどん守銭奴のようになって「お母さんからどうやってお金を取るか」を考えていることが嫌になってきてしまった。

  

 そのうえ、他の心配も出てきた。「赤ちゃんは見ていてあげる」というが、自分の子どもはどうするのかを忘れていたのだ。うっかりにも程がある。

 幼稚園入園を待てば解決するにしても、同室にお母さんがいるとはいえ、素人の私が人様の赤ちゃんを安全に見ていられるのだろうか。いや、その前に赤ちゃんが大泣きして、お母さんは読書どころじゃないかもしれない……。

  

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 私が部屋を借りないとすれば、どこが良いか。答えはわかりきっていた。
 本が潤沢にある場所といえば、書店か図書館。そこで自由に本を見られるためには、子どもをどうするのかを考えるしかない。結局、少しの間離れるのが双方にとって最善なのかもしれない。託児施設が近くにあれば、いいのだけど。

 

 トイレと風呂掃除の時間(ドアの向こうでは子どもが待機している)以外はいつも一緒に過ごしていたので、当時の私にとって子どもを人に預けるのは相当高いハードルだった。新しい仕事の面接や急な体調不良に備えて、ファミリーサポートや一時預かりに登録はしていたものの、実際に利用したのは2、3回だった。

  海外では、子どもを産んだ後でもシッターさんを依頼して夫婦で夜出かけるという話を聞き、「今の自分の状況では、子どもが高校生くらいになるまで不可能」と思ってクラクラしたものだ。

「もっと託児を気楽に利用できるようにならないと、自分がもたない」ということは、いつも考えていた。しかし、本を読むために託児を利用するという発想はなかった。託児をするに値するのは、やはり通院や買い物、美容室くらいと決め込んでいた。

 

「自分の好きなことをするために託児を使ったっていいじゃない」

 

 そう気づいて、ふと、「図書館」と「託児」で検索をかけてみた。すると、ポロポロと東京や地方の公立図書館で託児サービスを行っている、始めた、という情報がヒットした。

 営利事業がサービスを考えるのは当たり前だが、図書館のような公営の場所がサービスをするという発想がなかったので、私はものすごく驚いた。そして、どうして近くの図書館にはそのサービスがないのか、よその図書館ではどうやってそのサービスが始まったのかを知りたくてたまらなくなった。

 

 とにかくそのサービスがうらやましい私は、ごく自然に「じゃあ、やっているところに電話して聞いてみよう!」と、携帯を手にしていた。

2.ママ友は、うちに来て雑誌をむさぼり読んだ

「本読みたいー!」

 

 母になって、自分がこんなに本を読みたくなるとは、こんなに読めないとは、思ってもみなかった。

 

 産前の世界と産後の世界は、同じ世界のはず。産前と同じ家、同じ町に暮らしているのに、赤ちゃんと動く場所には育児情報しかない。子どものことしか、ない。そんな風に思えた。

 

 「子どもから目を、心を、一時も離してはいけない」という強迫観念にも近い思いが、私に「自分のためのもの」を見させなかったのもあったと思う。ともかく、そのころの自分は「子どもを連れていける場所にあるのは、子どもの情報ばかり」と憂いていた。

 

 ある日、仲良くなったママ友が子どもと一緒に家に遊びに来た。仕事柄、本や雑誌が集まりやすかった我が家で、子どもたちがじゃれ合う昼下がり。おしゃれな彼女は、言った。

 

「一瞬でいいから、バーッと雑誌見せてもらってもいい?」

 

 「本はあまり読まないけど、写真集や雑誌は大好き」という彼女は、ファッション誌をむさぼり読んでいた。“ママ友たち”と一緒にいるときに一人で雑誌を読んでいる人なんて見たことなかったけれど、彼女の姿を見て、私はとても嬉しかった。「そうだよね!!」と。

 

「あーあ、少しでもいいから自分中心で本とか雑誌とか読みたい」

「こんな強い欲求がここにある。これは、ニーズってやつだ!」

 

 そう気づいたとたん、私はいてもたってもいられなくなった。子どもを持つまで思いつきもしなかったけれど、このニーズは絶対に自分だけのものではない。そんな確信をもって、私は「何かできないか」と考え始めたのだった。

  

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 ところで、これまでの私の思いの丈を読んで、「そんなに読めない?」と不思議に思う方もいるのではないだろうか。実際、子どもを産んだ後だろうが読書を続けていたという友人もいる。「育休後の通勤電車が貴重な読書時間だった」という人もいたし、子どもと絵本を読むことで十分満たされた人もいる。「これまでは本を読まなかったが、子どもと絵本を読むようになり、図書館に来ることが増えて自分の本も読むようになった」という人だっていた。

 

 ははがよむ のイベント参加者へのアンケートで「産前産後で自分の本に触れる機会が変わったか」を聞いたところ、大部分の方が「減った」と回答したが、子どもの月齢やその人の読書習慣などにより「不都合」のバリエーションは多岐にわたり、数値でまとめることはできなかった。

 今後、そうした細かな要素も含めた大規模なアンケートをとってみたいという思いもあるが、数値では表れない、切実な「声」は大変貴重だ。

 

「子どもが寝た後に読もうと思っても、寝てしまう」

「絵本と育児書ばかり読んでいる。自分の本も読みたい」

 

 以前は月に数冊読んでいた人が、乳幼児の子育てをしている現在は0冊になったり、年に2冊になったりしている。

 

 どんなときに本に触れたいと思うか、という問いの回答を見返すと、胸がしめつけられる。

 

「子育てにつかれたとき」

「リフレッシュしたいとき」

「知識を得たいとき」

「自分を変えたいとき」

「子どもがなかなか寝付かないとき」

「悩んでいるとき」

「別の世界を味わいたい、浸りたいと思ったとき」

 

 本という奴の懐の深さを思わずにはいられない。

 私は学生時代から気の向くまま、好きなときに本を読んできたが、思うように本を読めなくなって初めて、自分はなぜ本を読むのかを考えるようになった。

 

 

1. 小さい子どもと一緒にいると、自分の本が読めないと気づいた

 

 出産して子どもとの生活が始まっても、趣味の世界は続けていこう。

 子どものものも、自分のものも両方楽しんでいこう。

 

 そんな妊娠期の意気込みは、産後たちまち消えた。肉体的なしんどさに加えて、生まれたての生き物を「安全に生かし続ける」ことへの絶え間ない緊張。心は一見穏やかでも、首のむち打ち症や度重なるギックリ腰、体重激減など、体がしっかりと負荷を受け止めていて、本を読みたい気分すら湧かなかった。

 

 生まれて6か月ほど経った頃だろうか。子どもがようやくお座りをした。常に抱っこや支えをしなくてもよくなって、両手を使って自分のご飯を食べられることにホッとした。

 ベビーカーを押して電車に乗り、ドキドキしながら好きな町をぶらつき、何も買わずに帰って来ただけでものすごい達成感。1年前には近所感覚で遊びに行っていたのに!  

 子どもの表情が豊かになり、こちらの呼びかけに笑い返したり、時には何かを訴えて大きな声を出したり泣いたりすることも面白かった。見よう見真似のおぼつかない世話でもぐんぐん成長していく姿に励まされ、「私と子ども」の閉じられた世界から一転、「子どもと一緒に世界へ飛び出していく」ドキドキと喜びを味わう日々が始まった。

 

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 散歩で心地よく揺られて眠そうな子どもの顔を確認したら、すぐさま近所の書店に向かい、新刊を一通りチェックして雑誌を素早く立ち読み。カフェ併設の店ではベビーカーを対面に置き(椅子を外してもらえる)、買った本を開いて久々のカフェインタイムを楽しんだ。

  家で過ごす時間もますます充実度を増した。生まれてすぐに先走って買ったものの無反応(あたりまえ!)だった絵本を見せると、声を上げたり手を伸ばしてきたりして、楽しそうに体を揺らしている。その光景は新しい物語の幕開けのようで、心の中でくす玉が割れた。

 

「これからは子どもと本を楽しむ生活が始まる!」

 

 喜び勇んで図書館へ行き、初めて「子どもの本」のコーナーに足を踏み入れた。赤ちゃん用の小上がりスペースがあることも、棚の背が低くて見晴らしがよいことも、初めて知った。

  あの絵本この絵本と開いていくと、子どもはキャッキャッと笑った。自分が「赤ちゃん絵本」なるものを読んでもらったことなど覚えていないけれど、子どもに「赤ちゃん絵本」を見せていると、心や感覚に訴え、何かを育てる読書というものがあることを実感させられた。そして、声を出して一緒に読む私の心にも、訴えるものがあった。

  

 初めて赤ちゃんのための読み聞かせ会に参加したときは、こうした事業が平日の昼間に長年にわたって開催されていたことに衝撃を受けた。膝に乗せたほかほかと温かい子どもと一緒に、優しく歌ったり、絵本を読んでもらったりする時間は、楽しさというよりは戸惑いと少しの抵抗感に彩られていた。

  人前で子どもの歌を歌う照れくささや、他人から「ママ」と呼ばれるたびに感じる違和感などの自意識との葛藤を残しつつ、私はそれなりに「子どもがいる人らしい生活」に慣れていった。戸惑いは、「新しい世界を知りたい」という好奇心の中に溶けていくようだった。

  図書館や書店で絵本の世界の豊潤さや奥深さを知り、自分自身が楽しみ、癒されていくことを知った私は、絵本探しに没頭した。いつしか子どもが自分で好みの本を選んでくるようになると、子どもから教えてもらう快感に痺れもした。

  

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 しかし、図書館に行く回数が増え、子どもが好きな本の世界を広げている傍らで、私は寂しさも味わっていた。

 

「私だって、自分の本も見たい」

 

 たまに遊びに行く子育てひろばには育児雑誌があった。読んでみたいと思ったけれど、子どもを見ていなければならないので、なかなか手に取れない。パラパラとめくってみても、その隙に子どもは他の子とおもちゃの取り合いを始めている。やっぱり、ゆっくりと読んでいるわけにはいかなかった。

 ベビーカーで寝てしまうことも少なくなり、「自分で歩きたい!」「絵本読んで!」と子どもが訴えるようになると、もはや雑誌や新刊本をチェックする余裕などなくなった。本が好きになってほしい、という願いが叶って喜ぶはずが、「まーた絵本かあ…。長いんだよねー」とうんざりしている自分がいた。

 

「本、全然読めない。 絵本しか読めない。 育児本しか置いてない…」

 

 こうして、本を読めない状態が少しずつストレスとなっていった。遊ぶ子どもを囲んで座るお母さんたちと、子どもを見ながら「何か月ですか~」と話したりしながら、「なんで赤ちゃんと過ごすようになると、こうなっちゃうんだ??」という疑問が、ぐるぐると頭を巡るのだった。

0.はじめに

 小さい子どもがいる母も、自分の本を読む時間がほしい! 

 そんな心の叫びから、「ははがよむ」は始まりました。

 

 子どもがまだ小さかったころ、出かけるとどこに行っても「ママ」の顔を求められ、自分の好きなことをする隙間もないような窮屈な気持ちを味わいました。

 子どもと過ごす時間はとても幸せで楽しくもあったけれど、自分の好きなことについて話したり、子どもには不向きかもしれないものを楽しんだりすることを、世の中があまり歓迎していないように感じて、「つまんないな」と思いました。

 

 子どもが成長して少し余裕が生まれると、少し前に自分が切望した「自分の本を読む時間」を持てなかったことを、広く世に問いたいという衝動のようなものがこみ上げてきて、周りの知人にことあるごとにその話をするようになりました。

 「確かに!」と同意する人もいれば、「そんなこと、考えたこともなかった」と、私の勢いに驚く人もいましたが、反対する人はいませんでした。ありがたいことに、多くの人が「やってみたいなら、やってみればいい」と背中を押してくれました。

 

 名称については、少し悩みました。母のみならず、子育てしている父も、もしかしたら祖父母だって、自分の時間が必要です。「ははが」とすることで、逆に母を縛ってしまうのではないか、とも考えました。

 でも、現状として私の周りで同じニーズを抱えていたのは母ばかりだったし、なにより私自身が母として悩み、考えたことなので、思い切って「ははが」としました。

 

 「子どもも自分の好きな本を読むし、母も自分の本を読む姿をロゴマークにしたい」と、子どもの幼稚園で知り合えたデザイナーの友人に相談したら、とてもすてきな図案を考えてくれました。「ははがよむ」の言いたいこと、求める空気を的確に伝えるこのマークが、全ての始まりでした。

 

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 それでも初めのころは、「ははがよむ」と聞くや、母親が子どもに読むんだな、と想定して、子どもに絵本の読み聞かせをするグループと勘違いされることがよくありました。

 そもそも母というのは子に対応する肩書ですから、わざわざ名称に「母」をうたっている場合、そう考えるのは自然とも言えます。そういう意味では「私が読む」というあたりまえの呼称でもよかったのかもしれませんが、いや、そのあたりまえのことができないのが「母」なんですよ、ということを伝えられたら。そして、そんなことすら言う必要もない、母も自分の時間をあたりまえに持てる世の中になったら、「ははがよむ」は必要なくなるのだと思います。

 

 「ははがよむ」結成でかけがえのない仲間もでき、一緒に考える中で、子育て中にも自分の時間を持つ大切さを考える会を企画したり、仲間の得意を持ち寄ってみんなで本を楽しむ会を開いたり、公園に雑誌や本を持って行って子どもが遊ぶ傍らで本を読める空間を作ってみたり、自分たちも楽しみながらいろいろな試みをしてきました。

 2019年からは国分寺市の提案型協働事業に採択され、図書館託児の実践にも取り組んでいます。

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 自分がしんどかった時期からいまや7、8年が経過して、状況はだいぶ変わってきました。母だけでなく父も、それどころか、あらゆる肩書にくくられる違和感について、世の中が考え始めています。

 でも、まだ入り口にすぎません。全体像ではなく個別の方々を見る限り、少なくとも母を取り囲む状況はまだまだ窮屈そうです。

 

 もちろん、母自身としてそれほど窮屈に感じていない人もいますが、私が活動の中で出会ってきた方たちは、当時の私と同じくらい、またはそれよりももっと切実に自分の時間を必要としていました。

 切実の中身は人それぞれでも、「欲しいもの」は重なる部分があるから、私は当時の私のために、欲しいものを作りたいと思っています。

 

 このブログでは、これまで細々と自分なりにやってきたことの振り返りや、これからやってみたいこと、悩みや考えなどを気まぐれに書き綴ります。

 子育てする母の内情の一端を知ってもらえたり、もし同じようなことを何かやってみたいと思う人がいたら、どこか少しでも役に立つものになったりすれば嬉しいけれど、まあそんな大それたことは考えずに、つらつらと書いてみようと思います。