1. 小さい子どもと一緒にいると、自分の本が読めないと気づいた
出産して子どもとの生活が始まっても、趣味の世界は続けていこう。
子どものものも、自分のものも両方楽しんでいこう。
そんな妊娠期の意気込みは、産後たちまち消えた。肉体的なしんどさに加えて、生まれたての生き物を「安全に生かし続ける」ことへの絶え間ない緊張。心は一見穏やかでも、首のむち打ち症や度重なるギックリ腰、体重激減など、体がしっかりと負荷を受け止めていて、本を読みたい気分すら湧かなかった。
生まれて6か月ほど経った頃だろうか。子どもがようやくお座りをした。常に抱っこや支えをしなくてもよくなって、両手を使って自分のご飯を食べられることにホッとした。
ベビーカーを押して電車に乗り、ドキドキしながら好きな町をぶらつき、何も買わずに帰って来ただけでものすごい達成感。1年前には近所感覚で遊びに行っていたのに!
子どもの表情が豊かになり、こちらの呼びかけに笑い返したり、時には何かを訴えて大きな声を出したり泣いたりすることも面白かった。見よう見真似のおぼつかない世話でもぐんぐん成長していく姿に励まされ、「私と子ども」の閉じられた世界から一転、「子どもと一緒に世界へ飛び出していく」ドキドキと喜びを味わう日々が始まった。
散歩で心地よく揺られて眠そうな子どもの顔を確認したら、すぐさま近所の書店に向かい、新刊を一通りチェックして雑誌を素早く立ち読み。カフェ併設の店ではベビーカーを対面に置き(椅子を外してもらえる)、買った本を開いて久々のカフェインタイムを楽しんだ。
家で過ごす時間もますます充実度を増した。生まれてすぐに先走って買ったものの無反応(あたりまえ!)だった絵本を見せると、声を上げたり手を伸ばしてきたりして、楽しそうに体を揺らしている。その光景は新しい物語の幕開けのようで、心の中でくす玉が割れた。
「これからは子どもと本を楽しむ生活が始まる!」
喜び勇んで図書館へ行き、初めて「子どもの本」のコーナーに足を踏み入れた。赤ちゃん用の小上がりスペースがあることも、棚の背が低くて見晴らしがよいことも、初めて知った。
あの絵本この絵本と開いていくと、子どもはキャッキャッと笑った。自分が「赤ちゃん絵本」なるものを読んでもらったことなど覚えていないけれど、子どもに「赤ちゃん絵本」を見せていると、心や感覚に訴え、何かを育てる読書というものがあることを実感させられた。そして、声を出して一緒に読む私の心にも、訴えるものがあった。
初めて赤ちゃんのための読み聞かせ会に参加したときは、こうした事業が平日の昼間に長年にわたって開催されていたことに衝撃を受けた。膝に乗せたほかほかと温かい子どもと一緒に、優しく歌ったり、絵本を読んでもらったりする時間は、楽しさというよりは戸惑いと少しの抵抗感に彩られていた。
人前で子どもの歌を歌う照れくささや、他人から「ママ」と呼ばれるたびに感じる違和感などの自意識との葛藤を残しつつ、私はそれなりに「子どもがいる人らしい生活」に慣れていった。戸惑いは、「新しい世界を知りたい」という好奇心の中に溶けていくようだった。
図書館や書店で絵本の世界の豊潤さや奥深さを知り、自分自身が楽しみ、癒されていくことを知った私は、絵本探しに没頭した。いつしか子どもが自分で好みの本を選んでくるようになると、子どもから教えてもらう快感に痺れもした。
しかし、図書館に行く回数が増え、子どもが好きな本の世界を広げている傍らで、私は寂しさも味わっていた。
「私だって、自分の本も見たい」
たまに遊びに行く子育てひろばには育児雑誌があった。読んでみたいと思ったけれど、子どもを見ていなければならないので、なかなか手に取れない。パラパラとめくってみても、その隙に子どもは他の子とおもちゃの取り合いを始めている。やっぱり、ゆっくりと読んでいるわけにはいかなかった。
ベビーカーで寝てしまうことも少なくなり、「自分で歩きたい!」「絵本読んで!」と子どもが訴えるようになると、もはや雑誌や新刊本をチェックする余裕などなくなった。本が好きになってほしい、という願いが叶って喜ぶはずが、「まーた絵本かあ…。長いんだよねー」とうんざりしている自分がいた。
「本、全然読めない。 絵本しか読めない。 育児本しか置いてない…」
こうして、本を読めない状態が少しずつストレスとなっていった。遊ぶ子どもを囲んで座るお母さんたちと、子どもを見ながら「何か月ですか~」と話したりしながら、「なんで赤ちゃんと過ごすようになると、こうなっちゃうんだ??」という疑問が、ぐるぐると頭を巡るのだった。